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クリスチャン教脱退!

  • 執筆者の写真: 来栖 彰
    来栖 彰
  • 3 日前
  • 読了時間: 5分

呆れるほどに荒れた日を過ごした。

気分転換に外出しても外出先で涙を流し、家に帰って来てもひたすら泣きじゃくる日。


きっかけは「何故自分は貧乏くじばかり引かされるのか」という疑問が、頭から払しょくできなかった事。

そこから自分は被害者であるという考えがどんどん膨れ上がって、破裂してしまったのだ。


でも、今日という日にとても大きな学びをしたと感じている。


体調が悪い日があったり、そんな日が続いたり、物事が思う様に行かなかったり、そんな完璧じゃない自分の人生を愛せる様になろうと思ったのだ。


きっと、私が今目指すべきはそこだ。


不調な日、目標に届かなかった日、不意に傷付いた日、そんな日も「自分の一部」として受け入れて、「そんな不完全な日々を生きる自分をそのまま愛する」ってのが私の課題なんだ。

 

人と比べるのをやめよう。

完璧を目指すのをやめよう。

失敗を責めるのをやめよう。

 

これらの考えは自分の心を傷つけて暗くするし、そしていつしか他人も傷つける価値観を育ててしまうから。

それこそイエス様が忌み嫌う「裁く」という行為なのだろう。

それが癖になって、自分の思考回路の一部になってしまって、それをどうにかしたいのにどうにもならなくて。

何故そうなってしまうのかの答えが、自分自身を許すことができていないという点かも知れないと思った。


体調不良はそりゃ嫌なんだけど、でも不調な自分を「嫌な自分」として見るのをやめようと思った。

そんな時もある、それが続く時もある、嫌な事もある、辛い事もある。

それで、いいのだと。

そんな「嫌な事だらけ」の自分の人生を「愛しい」と思えるようになるのが、今の私に必要だと思ったのだ。


そう思ったら、いつもは強烈な不安と恐怖に襲われている夜の時間も、まあこの時間はこうだから、仕方ないか、と受け入れられる気がする。


幸せは、そりゃ嬉しい。

それが続けば、尚嬉しいし、安心できる。


でも、それだけで構成された人生は、残念ながら私は神様からいただけなかった。

その事実に不満を抱えていると、心がしょぼしょぼして、いつしか神様の愛が信じられなくなってしまう。


でも、泣いてる自分、苦しんでる自分、失敗ばかりの自分、それらも自分であり、嫌な現実も自分の人生の一部で、それは切り離しようがないのだ。

多分、それが現実なのはイヤ!!って切り離そうとすると、より一層心が傷ついたり、疲弊したりするのだと思う。


そして、持っている物も幸せも、確かに人と比べたら少ないかもしれない。

でも、全く無いわけじゃない。


イエス様は五つのパンと二匹の魚で群衆を満腹にされた。

そのイエス様が今、私と共に生きて下さっているのだ。片時も離れず、私と共に死ぬまで運命共同体でいて下さるのだ。

足りないなんてことは、きっと無い。


大事なのは、自分の持ち物をイエス様にお預けする事。

小さなこと、大きなこと、幸せなこと、辛いこと、全てを信頼できるイエス様に持ってもらうのだ。


そして、人の幸せと自分の幸せを比べる事をやめるのだ。


私は、ペテロが大好きだ。

ペテロは自身の生き方や失敗を通して沢山のことを私に教えてくれた信仰の大先輩で、その人間らしさが私の心の傷にとても近く寄り添ってくれるから。


ペテロはヨハネのことを気にしていたけれど、イエス様に「関係ないでしょ。あなたは私の羊を飼いなさい。」って言われた。

これ、さりげないワンシーンの様に描かれているけど、クリスチャンにとってとても大切な教えだと思う。


最近、私が乗り越えるべき課題として気付いたのが、クリスチャンの視線を気にしすぎだということ。

クリスチャンを認めさせたい!

クリスチャンに否定されない立派なクリスチャンになりたい!


そんなことが、いつの間にやら私の目標になってしまっていたのだ。


でも、それは違う。それはやめなければならない。


私はクリスチャン教の信徒ではなく、イエス様の弟子なのだ。

いつの間にか信仰の対象がイエス様からクリスチャン達にすり替わっていることに気付き、なんだか憑き物が落ちたかのような平安に満たされた体験があった。


そう、私たちはいつの間にか「クリスチャン教の信徒」、あるいは「人間教の信徒」になってしまうことがあると気付いた。

人に認められたら、そりゃ気持ちいい。

でも、私達が本来認めてもらうべきはイエス様だ。

そしてそのイエス様は、イエス様のことを信じた人を既に認めておられるのだ。


そんなイエス様の愛の眼差しを無視して、人間の視線ばかりを気にしてはいけない。

これは信仰のボタンの掛け違えの始まりになりかねない。


もう、クリスチャン教・人間教は脱退だ。

私はイエス様の弟子なのだ。


「私の力は、弱さのうちに完全にあらわれる。」


なんて力強い御言葉だろうか。

なんて希望に溢れた御言葉だろうか。


私は弱いのだ。

意地悪で、卑怯で、どうしようもなくて。

でも、イエス様にすべてをお任せする時、そんな不完全な私をイエス様が用いて素晴らしいはたらきを成し遂げて下さるのだ。


それがいつ起こる事なのか、どんな事なのか、わからない。

でも、いいのだ、わからなくて。


私が、私達クリスチャンがやるべき事は、イエスという最高のパートナーを信頼して、賛美して、お任せして、自分のペースで歩んで行くことなのかもしれない。

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