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イエスからの自発的な愛が欲しい


お久しぶりですヽ(・ω・)ノ

退院後すぐに引っ越しをしたりとバタバタしておりました。無事引っ越して2ヶ月経ち、荷物も片付き漸く落ち着きました。

1年くらい前からおへその調子がおかしくて皮膚科に通っています。今日はお盆休み明けのせいか物凄く混んでいて、朝からどっと疲れてしまいました。

ここしばらくは、体調が悪いわけではないのですが、なんというか、私はクリスチャンなんて呼べる存在じゃないなーなんて思ったり、神様に「なんでこんな人生与えたの」とか「私を見せしめに使ってるの」とか言ってしまったり。

なんでそんな事を思うかというと、私は人並みの人生を歩んだ経験が無いんですね。

趣味が趣味なのでインターネットに張り付いていることが多いのですが、そこで私のような障害者への過激な発言を度々目にします。

特にショックだった言葉が「障害者は殺処分しろ」です。

結構良く使われている言葉でとてもショックを受けました。

つい最近、障害者施設での大量殺人事件が起きましたが、犯人の「障害者は生きていても不幸しか生まない」という言葉が、先述の言葉と同じように胸に突き刺さって抜けません。

私は一度クリスチャンをやめて、そして再び戻ってきた事によって、自分の弱さを認めました。

「もう二度と罪を犯しません」と神様にお約束しても、結局再び罪を犯してしまう、「もう二度と嘆いたりしません、常に喜んでいます」と神様にお約束しても、結局再び嘆き悲しんでしまう、「もう二度と怒りません」と神様にお約束しても、結局何かに腹を立ててしまう…その繰り返しからは、生きている限り抜けられないと悟りました。

だからこそ、イエス様の十字架が私には必要だとも思っています。

だけど、だからこそ、神様に嫌われているのではないかと不安になります。

神様に呆れられて嫌われて、もう私のための素晴らしい計画は与えて下さらないのではと思ってしまいます。

そんな嘆きを祈りに込めて神様にお話した時、私の口から出てきた言葉は「イエス様の方から自発的に私を愛して自発的に導いて欲しいです」というものでした。

聖書のとおりならイエス様は私達をそのままの姿で愛して下さっているということになりますが、それはあくまで立派なクリスチャンの話であって、私みたいないい加減なクリスチャンとも言えない人間に対しては、神様はもしかしたら嫌悪しているのでは…そう考えてしまいます。

しかし、そう考えてしまう中で「私は神様に愛されたい」「私が望んだからではなく、神様が望んだからという理由で神様から愛されたい」という願いが生まれるんです。

なんだか不思議なスパイラルです。

「そんなに不安ならば、クリスチャンとして精進すればいい」と、真面目なクリスチャンの方に怒られそうな気がしますが、私には今の生活がいっぱいいっぱいで、これ以上の事ができないというもどかしさがあります。

自活するために車を手放したので母教会に通えず、自転車で行ける距離にプロテスタントの教会は無く、朝と夜の聖書とのふれあいと、ネットでの牧師の説教だけが勉強の場になっています。

「自転車だろうと早起きして毎週教会へ行けばいいだろ!雨の日はカッパでも着て来い!」と、根性論を叩きつけられそうですが、現実自活しながら仕事もして教会も毎週行くというのが私にはハードルが高過ぎるように感じるのです。

以前久々に母教会を訪ねた時も、翌日は一日中体調が優れなかったり、回復までに時間を要したりしました。

毎日、同じクリスチャン達に責められているような気分で、もしかしたら自分はクリスチャンではないのではないかと思う事があります。

私はイエスの復活を信じ、再臨を信じ、天の御国を信じ、聖書がイエスが真理であると信じています。

でも、信じてはいるけれど自信がありません。

ただでさえ障害者という、これを嫌う人達からしたら害のある欠陥品です。しかもクリスチャンとしても務めを果たせていないなんて、私は神様にどう思われているのだろうと、不安で仕方ありません。

なんだかネガディブな記事になってしまって申し訳ありません。

そんな訳で、体調が悪いという程ではないし、信仰に迷いがあるという感じでもないのですが、なんというか、自分の存在価値や周囲からの目が気になって少々ナーバスになっております。

イエス様から自発的に愛されたい…

自分の口から出たこの祈りにどういう意味があったのか、何故こう思ったのか、イエス様は私個人の事をも愛して下さっているのかどうか、とても気になります。


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