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弱さを与えられていることに感謝


幼稚園の頃から教会学校に通っていた私は、ノンクリスチャンとは違った特別な教えを誇らしく思ったりと、それなりにクリスチャンらしい考えを持っていました。

でも、いざ試練に遭うと「神様、何故私なのですか」という祈りが必ず出てきました。

確かに辛い事ばかりの人生で、ロクな青春も送れず、年相応に友達を作って遊んだりもできず、家庭内にも様々な問題を抱えていたのは事実です。

結果、私は”楽になるために救われたいから祈る”という信仰の形を作りながら育っていきました。

ある時期よりキリスト教の教えを守ることが辛くなり、脅迫的に捉えるようにもなり、もう聖書の教えの通りに生きていたら頭がおかしくなってしまうと、聖書から、教会から、イエスから離れようとしました。

そうして私のクリスチャン的放蕩生活が始まるのですが…

前の記事に書いた通りの出来事を通して私は信仰の道に戻りました。

信仰が戻ったとて、日々の生活にはまだ弱さも、罪との戦いも、試みも、辛い出来事もたくさんあります。

だけど、クリスチャンになったらそういった辛い経験全てを避けながら楽しい毎日が送れるわけではないと知った今、そしてそれでもイエスを愛したいと思えた今、私の中に弱さが与えられていること、そして私の人生に今もこれからも試練が与えられていることに感謝しています。

肉的な喜びより、霊的な喜びを優先出来るようになるため、放蕩の時間は必要だったのだと今は思っています。

試みに遭うのは愛されていないからというわけではない、試みに遭うほど私達は信仰に生きる可能性を持ち神に期待されているのだと知りました。

何度も試みに合わせられるほど、私は信仰に生きて行く可能性を持っている…それをこんなにも弱々しく、情けなく、惨めで、頭も悪く、誘惑に弱い罪人である私に与えてくださった神様へ、感謝が溢れてきます。

だからこそ、私の人生の全てを、一分一秒一瞬の時間を少しも残らず神様にお捧げし、私の一挙手一投足天の父なる神様のご支配が及ぶことを望んでいます。

イエス様に私の全てをお捧げします。私の全てを永遠に支配していて下さい。


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