一喜一憂をやめ、委ねる
- 来栖 彰
- 2016年1月22日
- 読了時間: 3分
試練にあった時、「大変だ、何とかしなきゃ!」「これは間違ってる、どうにかしなちゃ!」って、自分の力で頑張って解決しよう、立ち向かおうってつい思ってしまう事があります。
先月から友人関係に酷く悩んでおり、裁く心と許す心の狭間で揺れ動いていました。簡単に言うと友人達のアッシー状態になっていて、それが許せなくなっていたんですね。
そして、自分の方が強いと見栄を張りたくなったり、言葉で言い負かせたくなったり、態度で不機嫌だと伝えたくなったり。
それともうひとつ、私は本当に弱いので、金魚のお世話ひとつでもすぐ不安になったり慌てたりしてしまうし、昨日はいよいよその両方の問題で頭がこんがらがってしまったんですね。
でも、今日の車の中でイエス様が語り掛けて下さいました。
「私に全て任せるんじゃなかったのか」「裁きたくなった時も私に相談しなさい」「金魚はお前のものではなく私のものなのだから案ずるな」「どんな時であっても私を頼りなさい」
はっとなりました。
私はまた、自分の力で何とかしようとしていたんですね。
裁きたくなった時も、不安が消せない時も、その他どんな時も、まずは祈る。
そして何より、全てを神にお任せする、今日一日という私の人生も、この先の事も全てを。
この基本的な事をついつい忘れがちだったり、或いは儀式的な心のない祈りをただ繰り返すだけで意味のない気休めの祈りになってしまったりしていた事に、再び気付かされました。
ですので、祈りました。
「イエス様は王の中の王、にも関わらず人の姿でこの世に来て、へりくだって下さいました。私も人に対してそう出来るように、もう一度十字架のもとに跪かせて下さい。」「はなちゃんの事は私ではやりきれない事や分からない事がたくさんあります、願わくは回復を、でも御心のままに成して下さい、お任せします。」「今悪しき者が私に語り掛けているなら、叱りつけてやめさせて下さい。イエスの語り掛けにだけ耳を向けさせて下さい。」と。
怒りとか裁く心とか不安とかが、スーっと消えていって、またイエス様の声が私の耳に届くようになりました。祈りって、イエスの語り掛けって、なんて不思議なのか。
いちいち一喜一憂せず、神のご計画にただ身を委ね、イエスを信じて全てお任せして期待して待ち、最善が成されるのを待つ。
私が常に掲げるべき目標だと思いました。
悪魔は絶えず語り掛けて私達を混乱させます。
でも、迷った時、混乱した時、心が罪に染まった時、そんな時があっても大丈夫だと今日は体験出来ました。イエスが語り掛けて下さり、「何を思い煩っているのか、私に言ってごらん」と優しく祈りに導いて下さるからです。
そして、どんな小さな祈りも聞いて下さるからです。
どんな小さな祈りも聞いて下さる、最善へ導いて下さる、私達を決して見捨てない、そんな約束をして下さった神様、かつてこんなに私を愛してくれる方がいたかと、何故か車で泣いていました。
悲しいとか怖いとかじゃなくて、嬉しくて。
「え、何でこのタイミングで泣くの?」って普通は思うかもしれません。でも、私にも何故だかわからないけど、イエス様がいつも私を気に掛けて下さっていて、常にともにいて下さるという約束して下さった事が本当なんだと体験すると、同時に神の愛がいかに大きいかに気付かされるんですね。
だって、私の心は罪に染まっていたのに。
なのに助けて下さる、愛を示して下さる、祈りへ導いて下さる、こんなに優しい神様がいるでしょうか。
ずっと叫びたいです、イエス様、私も愛していますと。
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