top of page

愛の伝道師 2019/10/21

参考聖句【コリント人への第一の手紙 13章13節】

こういうわけで、

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。

その中で一番すぐれているのは愛です。

日々やる事に追われ、

自分の事でいっぱいいっぱいになっていると、

いつの間にか忘れてしまう「愛する事」。

とりわけ日本という国は仕事にも学業にも家庭にも余裕がまったくなく、

自分以外の人の事を構う、

否、自分を含め「人として愛を持って構う」という行為が

非常に難しくなっています。

そもそも愛とはなんでしょうか。

聖書ではこう教えています。

(参考:コリント人への第一の手紙 13章4-8節)

愛は寛容であり、愛は親切です。

また人をねたみません。

愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、

人のした悪を思わず、

不正を喜ばず真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、

すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。


これを実行して生きるとは、今の世の中ではなかなか難しいところです。

この闇の世は理不尽で不条理な事ばかりだし、

良い事ばかり起こる人もいるのに自分には悪い事しか起こらないし、

熱心に祈り、礼拝(集会)にも参加して真面目に生きているのに、

いつになったら幸せになれるんだろう、

いつになったら自分の祈りが聞かれるんだろう、

そんな風に思ってしまっても無理はありません。

ある意味人間として正常な思考と言えます。

管理人もそう思う場面に遭遇する事は、おそらく人一倍多い方です。

しかし、

この愛に関する理屈をクリスチャン的な考えで受け取れば、

たとえ難しい事でもこの愛する生き方を目標にしたいと、

自然と思えるようになる気がしてきます。

そもそもクリスチャンの第一目標とは何でしょうか?

富や名声を得る事でしょうか?

そんな贅沢は言わないけど安泰な生活を送れる事への保証ですか?

それが神から愛されている証拠だと言うなら、

キリスト教の教えはもはや不要です。

物質的な、或いは金銭的な恵みを得ている事や、

心身共に健康で生活に不自由がない事、

また安泰で心が常に平安で満たされている事が神に愛されている証拠だと言うなら…

例えば熱心な祈りの雨の中、

無念にも若くに地上から命を取り去られた人は、

神に愛されていなかったのでしょうか?

イエス様を受け入れたけど、

依然として暗渠に埋められているかのような辛い人生を送っている人は、

神に愛されていないのでしょうか?

身体に不自由がある人は愛されていないのでしょうか?

心に病を抱えているのは愛されていない証拠ですか?

そんな疑問は、聖書がきっぱりと否定しています。

(参考:ローマ人への手紙 8章38-39節)

私はこう確信しています。

死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、

力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、

私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、

私たちを引き離すことはできません。

死ですら私たちをイエス様の愛から引き離す事はできないのです。

私たちが困難に遭うのは、決して神に愛されていないからではありません。

それを否定する事は聖書を否定する事になります。

クリスチャンが忘れてはならない一番の目標とは、

己の罪という神との隔たりをイエスの十字架によって消していただき、

天上にて神とともに永遠の平安のもと永遠に住まうための永遠のいのちを得る事、

これだけなのです。

地上での私たちは旅人です。

私たちクリスチャンは地上ではいわば寄留者です。

 

なのに、地上での富や名声や安泰を求める事は、

クリスチャンとノンクリスチャンのダブルスタンダードのような、

本来あり得ない生き方です。

自分が罪人である事を認めイエスの十字架の事実を受け入れた瞬間、

私たちは既に天に名が刻まれており地上のものではなくなったのです。

既に永遠のいのちという神の大きな愛を受け取っているのです。

これは一方的な神の愛でありプレゼントであり、

自身の行いや心の清さによって受け取れるものではありません。

そんな神の愛を伝える「愛の伝道師」としての役割を果たすため、

私たちは神が決められた時間を地上で過ごすのです。

試練の嵐に遭う時、

嘆こうが、神を呪おうが、憔悴しようが、立ち止まろうが、大切な何かを失おうが、

一度受け取った神の愛が断たれる事は決してありません。

聖書にそう書かれているのだから、

クリスチャンならばそれを信じるべきです。

伝道とは神の愛を伝える事に他なりません。

完璧な愛をお持ちの神様のようにはいかないでしょう、当たり前です。

それでも自分なりに、愛を持って人に接し、神に与えられた地上での役割を果たすのです。

試練の嵐の中にありながら神の愛を伝えて生きる、

そのクリスチャンの香りを放つ生き方こそが本当の伝道なのです。

それがクリスチャンの生きる意味であり、唯一できる自己犠牲です。

目標は地上ではなく天であると気付いた時、

愛する事は困難でも目標にする勇気が湧いてきます。

bottom of page