top of page

自制心 2019/10/21

参考聖句【箴言25章28節】

自分の心を制することができない人は、

城壁のない、打ちこわされた町のようだ。

心を病むと自制するということが、

なかなか難しくなります。
ときに自分をコントロールしきれなくなってしまうのも、

まあ仕方のないことだと私は思っています。

だからこそ「自制することは大切である」と、

頭のどこかに入れておくことはとても重要だと思います。
クリスチャンだからと言うより、

まあそれもありますが…

精神を病んでしまっている人ほど重要ではないでしょうか。

昔、私が通っていた精神障害者向けの就労支援施設では、

誰かが誰かに攻撃的なことや脅迫的なことをしても

「みんな病気でお互い様だから」

というスタッフの一言で片付いてしまっていました。

でも、その自制できない部分こそ、

矯正していく必要があるのでは?
と、ずっと疑問に思っていました。

生活するために必要な能力、

仕事をするために必要な能力、

そしてコミュニケーション能力を育てることを目標にしているという割りには、

このような行為は見逃されることが多いのが

こういった施設の常識というかやり方なのかと、

ちょっとびっくりしました。

私自身はそういった攻撃的・脅迫的なことをされた結果

「お互い様なんだったら、

私自身も病人なんだから、

多少攻撃的になっても仕方ないのかも」

「今度なんかされたらやり返してやろうか。」

なんて考えるようになってしまいました。

しかし、我に返ってからは

「攻撃されたら自分も攻撃してもいい」

「自制できないのは人間なんだから仕方ない」

「そもそも病気なんだから仕方ない」

というような考えが「自分の感情の基本」になってしまうのは

とても危険なことだと感じています。

その考え方にマッチしていたのが、箴言の25章28節でした。
自制できない状態の人間は、

廃れているだけではなく脆くて頼りないと。
まったくその通りだなと思いました。

攻撃していても、決して強くはないのだと。
むしろ、自制する強さを持たず弱いから攻撃してしまうのだと。

では、具体的にどう自制したら良いのか。

私がたどり着いた答えは

「ゆずれない、失いたくない、大切なものをつくる」

という方法でした。

大親友を作れとか、

恋人作って結婚して子供を産めとか、

そういうことじゃないんです。
大切なものって人それぞれで、

家族や友人や恋人などの人間関係でも良ければ、

ペットでも夢でも趣味でも作品でも芸能人でも、

本当に何でもいいと思うんです。

精神障害者が交遊関係を広げていくのは至難の業で、

(あまりクリスチャンとして相応しくない言い方ですが)

よほど運が良くなければほぼ不可能に近い人もたくさんいるのが現実ですよね。
訓練すれば大丈夫とか

そういう問題ではないと感じている障害者は、

少なからずいるはずです。

私がよく自制心を取り戻す理由なんて

「アニメの新作が見たいから我慢しよう」とか

「漫画の続きが気になるから耐えよう」とか

「新しい作品を作るためにも最低限の自分の名誉は守らなければ」とか、

そんな感じです。

「自分がヤケを起こしたらこれを失う、それは絶対にいやだ」

と思えるようなものって、

意外と強い自制心を生み出すことに

大きな影響力があるのではないでしょうか。

「そんなもののために生きているなんて、くだらない」

という人に出会うことがあるかもしれませんが、

そんな自分を理解するつもりもない人の言ってることに惑わされる必要もないと思うんです。

本当に、周囲から見て「くだらない」

と見えるような理由でもいいんです、

それで自制に繋がるなら。
それで人を攻撃することや自傷することや自殺することをやめられるなら、

そんなに素晴らしいことはないじゃないですか。

好きなラーメン屋に通い続けるために、怒りは横に置いておこう。
あのゲームの新作を遊ぶために、自殺は諦めて生き続けよう。
この趣味を年寄りになっても続けるために、自分の名誉は守ろう。

どれも素晴らしい「自制心」だと、私は思います。

bottom of page